ミシェル・ウェルベックの『服従』を読みました。

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読みました。表紙がやけにテカっているのは、図書館で借りたラミネートされた本だから。

2024年1冊目の読書。(正確に言えば2023-2024を跨いでの読了)

まあまあ嫌な気持ちになる本だった。今年はこういう嫌な気持ちになる本をたくさん読みまくってどんどん嫌な気持ちになりたい。

 

以下はネタバレを含みます。気にする人はここで読むのをやめてください。

 

ざっくり言うと「2022年のフランス大統領選でフランス発のイスラーム政権が誕生。その後フランスはどうなる・・・?」という話。

奇しくもシャルリー・エブドのテロの当日(恥ずかしくもおれはこの事件の名前を忘れていた)に発表された作品ということで、「予言的作品」と、ヨーロッパではかなり話題になった作品の模様。

正直なところ、フランスの政治や思想、それからイスラームの思想というものに明るくなかったため、どこからどこまでが本当の話なんだ・・・?という気持ちになった。

序盤は何がどう「服従」なんだろうか、と思いながら、気がつけばそうならざるを得ない心情になっていた。見事に袋小路に追い込まれた、という気持ちになる。どんどん嫌な気持ちになっていきたい。嫌な気持ち、最高〜!

 

タイトルの「服従」は物語中の各ターニングポイントの象徴となっている。

・フランス国民のイスラーム政権への「服従

教育機関イスラーム政権への「服従

イスラームにおける、神への「服従

イスラームにおける、女性の男性への「服従

・主人公フランソワのイスラームへの「服従

 

既存の社会制度の中で生き、それを享受してきた人間にとって、そのシステムに期待するものが何もなかった者たちが、格別怖れもせずに、その破壊を試みる可能性を想像することはおそらく不可能なのだ。

人間の絶対的な幸福が服従にある。女性が男性に完全に服従することで、イスラームが目的としているように、人間が神に服従することの間には関係があるのです。

上にも書いたが、フランスの価値観とかイスラームの思想についてほぼ知らないため、どこからどこまでが本当かわからないが、少なくとも本書内においては「イスラーム政権の誕生」は説得力を持ったシナリオとなっている。(本の帯にも「細部が異様にリアルで、もうほんとのことしか思えない。」「こんなことは起こらない・・・多分・・・いや、もしかしたら」などといったコメントが書かれている。)

「我々日本人は」というと主語が大きくなりすぎるが、少なくとも私はこの本を読んで改めて自分が「民族」や「宗教」に関する理解が乏しいということを感じた。

本書の末尾の「解説」では、元外務省主任分析官の佐藤優氏が、イスラエルの友人に「ヨーロッパでは『服従』はどう受け取られているか」と質問した際の会話が紹介されている。この友人によると、『服従』が話題を呼んだ原因は大きく二つあるという。一つ目はイスラム国への恐怖。二つ目はヨーロッパ崩壊への不安、だという。イスラム国へ得体のしれぬ恐怖を抱きつつも、全ヨーロッパとしての結束することも自国愛をもとにした結束も生まれ得ない、「内的生命力を失ってしまっている」というのが『服従』発表当時のヨーロッパの状況だという。漠然とした精神的疲労と不安に覆われたところにテロ事件と『服従』が登場し、大きな波紋を呼んだ、ということらしい。

正直、日本でしか暮らしたことのない(かつ、"愛国心"を特に強く持つわけではない)私としてはあまりピンとこない感覚だった。意図せずしてこういった価値観に触れられるのが読書の素晴らしい点だと改めて感じた次第である。(書かれている内容の成否や偏向、表現の過激さは置いておいて)

一方で、「グローバル」や「SDGs」といった文脈においては、こういった複雑な世界の民族・宗教事情に対する我々日本人の無理解が露呈してしまっているようにも感じた。

直近では、SDGsを標榜する日本を代表する某大手企業が公式X(旧:Twitter)アカウントで、「飯テロ」というワードを発信しているのを見た。テロは本書の一つのテーマでもあり、いくつか象徴的な描写が登場する。グローバルに報じられるテロの背景にある宗教的・民族的文脈、かつ自分たちがグローバルに事業を展開する企業であるということをを少しでも考慮すれば、安易に「テロ」という言葉を用いるべきではないということに思い至っても良いはずだとは思うが、それには至らず「バズっているネットスラング」でインプレッションを多く稼ぐ方が良い、という判断で終わってしまうというのが現状の日本人の価値観であるように感じる。「SDGs」は思想ではなく、あくまでプロモーションのツール程度にしか認識されていないように思う。(※SDGs及び安易にネットスラングに飛びつく大手企業に対して極端な偏見を持つ筆者の意見)

また、『服従』ではしばしばイスラームの男女観も話題になる。(繰り返しにはなるが、本書内の記述がイスラームの思想を正しく伝えているかどうかは筆者の知るところではない)イスラームでは一夫多妻制が認められており、女性は家庭から出るものではない、というのが本書内で描かれるイスラームの男女観である。昨今、フェミニズムについてもSDGsに近い文脈で語られることが多い。「飯テロ」は良くて、飲み会で女性社員にお酌をさせたり交際相手の有無を尋ねるのは全メディアを挙げて糾弾すべき悪習である、というのが今の日本の価値観である(※揚げ足取りのしょうもない記事でPV稼ぐメディアに対して極端な偏見を持つ筆者の意見)が、『服従』はここにも一石を投じているように感じた。

 

様々な思想が渦巻く本書の中で、「作者は何を考えているのか?」を考えることは非常に重要な意義を持つように思う。

これまでに書いてきた、本書におけるイスラームの思想をミシェル・ウェルベックがよしとしているのか、それともそれを風刺する意図で書いているのか。

はたまた、しばしば登場するニーチェの思想を信奉しているのは主人公フランソワなのか、フランソワを改宗させる新イスラーム大学学長ルディジェなのか、はたまたミシェル・ウェルベックその人なのか。こういった視点で、作品全体を『ツァラトゥストラ』的に読むことができるようにも思う。

私には何が正解なのかわからないが、少なくとも「イスラームを侮辱している」「フランスを侮辱している」「不謹慎だ」といった読み方をしてしまうのであれば、それはウェルベックの思う壺だと思う。

「筆者の考えを述べよ」というテストを作っている国語の先生がいたらあなたの答えを聞かせてください。

 

昨今、インターネットを開けばコンプライアンス違反だの失言だので「炎上」する案件が増えており、何を発言してよくて何を発言したらダメなのかがわからなくなってきている。(私個人が。)政治や世界の宗教や民族の問題への関心は薄いのに芸能人の失言や性的放埒をメディア総立ちで糾弾するこの国でこんなブログを発信することにリスクはあれど何の価値もないのにどうしてこんなことをしているんだろう、と思いながらこの1時間ほどずっとこの記事を書き続けている。

比喩でもなんでもなくあからさまにイスラーム政権が成立し既存の権力が価値を失うという『服従』のような作品が日本で発売されたとして果たして許されるのだろうか?

服従』は、拠り所を失った人々が何に縋るか、という一種の思考実験のような作品である。今、日本もある種、既存の価値観が崩壊するフェーズに入っているように思う。極端な"昭和の日本企業的風土"へのバッシングであったり、某宗教団体、某芸能事務所への批判であったり。オリンピックや万博の求心力の低下もそうだ。

かつて人の心を集めた旧時代の遺物が権威を失った時、人々は何に『服従』するのだろうか。

主人公フランソワは最後にこう語る。

何年か前にぼくの父に起きたように、新しい機会がぼくに贈られる。それは第二の人生で、それまでの人生とはほとんど関係のないものだ。

ぼくは何も後悔しないだろう。

 

この記事は何か問題がありそうであればすぐに削除します。私には思想・主義・信条といったものは1ミリもありませんが、守るべき生活だけはあるからです。インターネットで身を滅ぼすほど愚かなことはありません。フランソワは「ぼくは何も後悔しないだろう。」と言ってますが、おれはこの記事を書いたことを後悔すると思います。

本当に、こんなクソつまらない何番煎じかわからない「世相に一石投じました」記事を書いて一体何になるんだ。しょうもない。

しょうもない恋愛を歌っていたくせにいきなり世界平和だのNHK合唱コンクールの課題曲だのを歌い出してクソスベってる歌手と同じことをしています。2024年は嫌な気持ちになる本をたくさん読み、スベりにスベり倒し、どんな感情も受け入れられるようになりたいと思います。今年もよろしくお願いします。

 

今週のお題「2024年にやりたいこと」