選択と自由と責任

昇進するためには人事が指定した「通信教育」なるものを受けなければならないため、嫌々ながらもひとつ受講することになった。

合格すれば受講料の半額が会社から返ってくることになっているのだが、講座一覧を見るとほとんどの講座の受講料が1万円以上となっているので、5000円程度は自分で負担しなければならないことになる。

金額に見合うだけの講座もあるのだろうが、「メモの取り方」「Excel初心者講座」など、"キャリアアップ"というよりは"就労支援"の空気が感じられるラインナップにいささか辟易してしまう。おれは大卒だぞ。

とにかく安く(とはいえ、1万円は超えてしまった)、手っ取り早く終わりそうな講座を選び、申し込んだ。

 

後日、教材と受講の手引きが届いた。Web上で解答・添削が完了する講座とのことだった。以前受講した講座はマークシートに手書きして郵送するタイプだったから、かなり進んだ講座を選ぶことができたと言える。

受講の手引きを読み進める。

 

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【Tips】記述式の問題の解答をする際は、入力途中にインターネット接続が切断されると入力した内容が消去されてしまう可能性があるため、あらかじめ"メモ帳"などに答案を入力しておき、コピー&ペーストしましょう。

 

なるほど。味わい深い。

小学生の頃、校内に突如として「コンピュータルーム」ができ、「情報」の授業が始まった。1文字タイピングするとF1カーが1マスずつ進むタイピングゲームやWindowsプリインストールのピンボールに熱狂したものだ。当時はコンピュータ室にだけエアコンが付いていて、休み時間にコンピュータ室が解放される時には我先にと駆け込んだものだ。

令和のこの時代におれが手にしている受講の手引きからは、不思議と、あの頃の「コンピュータルーム」の匂いがする。やたらと静電気をまとう化学繊維のホコリ取り。パソコン本体のファンの音。小学校の天井付きのエアコンの風。紛れもない、あの頃の青春の匂い。

だが、おれが今現実に対峙しているのは、ただ昇進のために通過する必要があるだけ、ただそれだけの、何の中身もない、通信教育の教材。通過することに意義がある。教材によって何を学んだとか、おれが何者であるかとかは関係ない。企業の中のひとつの数字。多少波打つことはあるかもしれないが、大きな大きな数字のなかの、小さな小さな一つの数字。誤差の範囲。点。消えかかった影。

おれが世界の中心であり、世界の中心たるおれのそのそばにいる友人たちも、さらにその周辺にいる友人の友人たちも心の底から沸き立っていたあのころ青春には程遠い。かの青春には、生まれて1年にも満たない我が子のほうが近いと言える。おれはとうに退場した演者なのだ。もう戻れない。脇役ですらない。背景。ハリボテの木。いくらでも代用の効く存在。居ることだけに意味があり、いや、居る必要があるかどうかも危うい存在。中身にも外見にも意味を求められない。

 

ページ数の割に中身のない受講の手引きを5分とかからず読み終え、記載されているウェブサイト上で受講の手続きをすることにした。

 

基本情報の入力。氏名、生年月日、会社名、所属、職種、趣味。趣味?何故?

希望する講師の選択。一目見てJPEGであるとわかる粗さと独特の色味の、中年の顔写真数枚と、それぞれに添えられた4〜5行のプロフィール。

「山登りが趣味です。」「映画、特にSFが好きです。」

中年の趣味?何故?

強いていうならば少し前に読んだ小説がSFだったな、ということで、SFが好きだという、2000年代初頭のホームページにありがちな画質で、縁がグラデーションになったポートレイトの中年女性講師を選択し、次に進む。

 

どうやら、全3回のWeb上テストでこの講座の修了が決定するらしい。

ひとつめ、ふたつめのテストは選択式で、自動で添削される。みっつめのテストは記述式の設問も含まれる。これは先ほど選択した講師が採点する。3回のテストすべてに合格すれば、晴れて修了となる。

 

多忙かつ頭脳明晰極まるおれは、教材をパラパラマンガのごとく一巡したのち、傍に置いたスマートフォングランブルーファンタジーのボス戦をフルオートで流しつつ、早速テストに取り掛かる。

 

テストの内容はあまりに稚拙だった。問題文を読めば教材のどこを参照すれば良いかすぐにわかる。教材をめくり、目次を見て、設問に該当するベージを開く。そのページに書いてある通りの内容を解答する。ただそれだけ。教材というのも、キーワード索引が付いていない、体系的な知識を学ぶ為の書籍としてはとても粗末なものだ。それでも、設問のレベルが低すぎてすぐに解答にたどり着くことができる。受講料分の金を持って本屋に行くほうがよっぽど有益だろう。

おれはこれに6,000円払ったのか。おれは大卒だぞ。大卒を舐めるのも大概にしろ。

学習の対象がなんであれ、稚拙な設問からは稚拙な知識しか身に付かないということを身を以て学ぶことができた。大学に通うために高い学費が必要な意味と、そこで学べることがいかに質の高いものであったかを、身を以て思い知らされた。大学法人と職業訓練所は似て非なるものである。おれたちは、職業訓練所に通っていたのではなく、れっきとした、大学、そう、大学に通っていたのだ。嗚呼、おれはなんと時間を無駄にしたことか。何と貴重な機会を自ら喪失していたことか。

 

傍に置いたスマートフォングランブルーファンタジーのボス戦をいくつか終えたところで、全ての設問への解答が終わった。

ひとつめ、ふたつめのテストについてはその場で合格。みっつめのテストについては講師の採点待ちとなった。

テストの画面の貧相さは筆舌に尽くしがたい。運転免許取得の時の効果測定ぐらいのショボさ、地方の図書館の書籍検索端末のインターフェース、を想像していただきたい。

 

テストを終えて3日ほど経ったところで、登録したメールアドレスに「採点が完了した」という旨のメールが届いた。

仕事が休みの日だったし、心の底からどうでもよかったので、その3日後ぐらいに結果を見に行った。

 

結果は、100点満点中76点。

70点が合格だから、合格・修了である。2000年代初頭の公立の小・中学校を思わせるデザインのマイページに「お疲れ様でした。本講座は修了です。」と、桜の花びら付きで書いてある。これをもって、通信教育の業者から我が社の人事の担当者へ修了の旨が通達され、おれは晴れて昇格し、受講料の半額が振り込まれるらしい。

 

しかし、頭脳明晰かつ「テスト」と名のつくものにおいては常に成績優秀であったおれにとって、「76点」という点数は不服だった。

何故、大卒のおれが、人を舐め腐ったようなテストでこんな点数を付けられなければならないのだ。

 

WindowsXP以前の、Yahoo!ジオシティーズ全盛期のインターネットを彷彿させるマイページをよく見てみると、採点結果の詳細を表示することができた。

 

よくみると、とある設問で、「0/20点」という採点があった。

これが原因かと思い、採点詳細のページを開く。

 

講師のコメント:大変よくまとめられています。

 

あなたの得点:20点満点中、0点

 

なんでだよ!

 

どこを見ても、減点の理由が見当たらない。異議申し立ての手順もない。

 

 

あるのはこれだけ。

 

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待ってくれ。おれの解答のどこが悪かったを教えて欲しいんだ。

 

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合格できたならそれはいい。だが、何故この設問が0点だったかをおれは知りたいんだ。

 

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おい、頼む、頼むよ・・・・。

何が間違っていたんだ?

 

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おれは設問に対して教材を基に解答しただけ。間違える要素はなかった。

 

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間違える余地なんてなかったんだ。

 

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本当にそうか?

 

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本当に選択の余地はひとつもなかったのか?

 

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いや、「選択」したことがひとつだけあった。

 

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おれが選択したことといえば、あの選択・・・。

 

あの中年女性さえ選ばなければ・・・。

 

 

おれは与えられた「自由」を行使した。

通信教育の講座を選択する「自由」。講師を選択する「自由」。

「自由」であるがゆえに、その「選択」はおれの「責任」となった。

システムによって与えられた選択肢と、システムの中で許された自由と、システムのために負わされた責任。

 

おれがあの講師を選ばなければ、おれは76点ではなかったかもしれない。

 

しかし、果たして、おれの ”与えられた「自由」” はそもそも自由だったと言えるのか?

おれはこの通信教育を選択すべくして選択して、修了すべくして修了して、とある設問で0点を取るべくして0点を取っていたのだとしたら?

 

20年前、「コンピュータルーム」が出来たとき、ようやくタイピングの仕方を覚えたあのときにワクワクしながら描いた未来はもう訪れているのだろうか。

それは、すべてがインターネットで繋がり、数値化される未来だっただろうか。

 

20年前、「コンピュータルーム」が出来たときのおれにとっては「よくできました」がすべてだった。

世界は、あの頃から何も変わっていないのかもしれない。

 

 

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