『凍』/ トーマス・ベルンハルト

タイトルは"凍(いて)"と読む。原題は"Frost"なので、直訳すると"霜"となるところだが、"霜"ではこの作品を貫く寒さや冷たさといったものが伝わりきらないと思い、あえて"凍"とした、というようなことが訳者あとがきにあり、まったくもってその通りの本だった。

 

【あらすじ】舞台は第二次世界大戦後のオーストリア。研修医である「ぼく」は、先輩の「下級医シュトラウホ」から、彼の弟「画家シュトラウホ」に接近し、その様子を報告するよう命じられる。研修医は画家を訪ねて寒村ヴェングに向かう。そこで過ごした約1ヶ月間の記録。

 

読み終えてから知ったことだが、この作品が書かれたのは1963年。日本語版が出版されたのは2019年。なんと、原語での初版から56年後の昨年、ようやく日本語版が出版されたわけである。(ちなみに作者トーマス・ベルンハルトは1989年に没している。)どうやらすごい本に出会ってしまったようだ。サンキュー河出書房新社!サンキュー大阪市立図書館!遥か遠い異国で書かれた作品を今日自宅でぬくぬくと読んでいられるというのは決して当たり前のことではないのだと改めて感じる次第である。

本そのものについて調べたついでに作者について調べてみると、この作者のトーマス・ベルンハルトという人がどうもケッタイなオッサンだったようだ。生前は保守団体からヤイヤイ非難されたり友人から名誉毀損で訴えられたりしていたらしい。反省するのかと思いきや、「文学的亡命」と称して「死後、母国オーストリアでの自分の著作の出版・戯曲の上映を禁ずる」というような遺言を遺したらしい。(かなりおれ好みな)クセの強いオッサンである。

 

さて、肝心の『凍』そのものの話。

読み終えてからこの作者の人物像を知ると「なるほどな」と思わずにはいられないのが、『凍』の主役、画家シュトラウホである。

本作は、"主人公である「ぼく」が綴った日記"という形で進行する。「ぼく」による画家シュトラウホの観察がメインテーマだ。

この画家シュトラウホが、訳のわからないことを喋り、訳のわからない行動をしまくる。大衆の批判、国家の批判、人生への深い諦念、悪口に対する過敏な反応。画家シュトラウホを知ってからトーマス・ベルンハルト本人を知ると、これは作者自身だったのではないか?と思ってしまう。

シュトラウホは突飛な言動ばかり見せるし、彼らが宿泊している宿の周辺で色んな事件が起こる。寒村ヴェングとそこに住む人々はたしかに"生きている"ように見える。しかし、彼らは"死んでいる"とも言えるのではないかと思わされる。生きながらにして死んでいる状態。通底する矛盾。それが"凍(いて)"だ。

研修医と画家が滞在するヴェングは、険しい地形に囲まれた、寒さの厳しい土地。とても自然に恵まれた土地とは言えない。作物はあまり実らない。村人は皆貧しい。出稼ぎに出るものも居るが、村を出ることなく一生を終える者も多い。よそ者を受け入れようという友好的な空気もない。何の希望もなく、陰鬱に日々の生活が営まれているだけの、暗くて、寒くて、貧しい村。それがヴェングだ。(実際のヴェングはそんなにひどいところではないらしいが。)諦念が充満した陰鬱な田舎町。それが"凍てついた"物語の舞台だ。

読者がその舞台から感じることのできる"凍"と別に、画家シュトラウホの口から、彼が見る"凍"が語られる。「生命あるものに死を齎すもの」「全てを停止させるもの」。画家シュトラウホが見る"凍"。これがあまりに陰鬱だ。

発電所の工事中に川に落ちて凍死する者、遭難死する観光客、森にある凍ったままの動物の死骸、第二次世界大戦の遺物、兵士の死体。白銀の風景の中には常に死の匂いが立ち込めている。それは、腐敗すら許さないという、"凍は死すらも死なせてしまう"という、そんな無慈悲さも感じさせる。そして、田舎の村特有の排他性。近親相姦とも言って良いほどの狭い世界での姦通。噂話の伝播。払われるはずのないツケ。しきたり通りの葬式。不正。生き生きと巡り巡っていると思われた世界は、手垢と腐臭にまみれ行き詰まっている。同じことに繰り返し。世界の全てが凍り付いて停止している。死んでいるが腐りもしない状態。腐りに腐りきっているがそれ以上腐らない状態。生きて動いているように見えたものはとっくに死んでいた。春はもう来ない。もう二度と春は来ないのではないかと思わずには居られないくらいの希望の無さ。

ヴェングを取り巻く全てに希望が感じられない。画家シュトラウホは世界の在り方を知り、全てに絶望する。しかし、何をするでもなく、ただただそこに居て、その有様を見る。見続ける。この描写、この描写がたまらない。

画家シュトラウホは孤独である。友人は無く、親族とも断絶状態。画家を名乗っているが画業で名を成したわけではない。

彼の目には、自分がさんざん苦労して描きあげたものも、人を感嘆させたり、まして歓声をあげさせたりするにはほど遠い駄作であることが、まざまざと見えていた。自分の生み出したものが月並みとしか思えなかった。すべてがぼろぼろ崩壊していった。

「だが私は無能だ、底無しの無能だ。」多くの人間に非凡なところがあるが、それは洒落ほどの値打ちもない。「だが私は名もない人間だ。」

あくまで個人的な印象だが、彼の発言がその大半を占めるという構成と、度が過ぎると言ってよいほどの厭世的な態度から、画家シュトラウホにはどうしてもニーチェの「ツァラトゥストラ」のイメージがついて回る。しかし、シュトラウホはツァラトゥストラに喩えるには"あまりに人間的"すぎる。そう、"あまりに人間的"。シュトラウホはツァラトゥストラが語るような超人では決してない。俗人と群れることを嫌いながらも、俗人との関わりを捨てきれないし、自身に対する肯定も弱い。むしろ、自身を否定し続ける。ツァラトゥストラの対極と言ってもよい。"超人"など程遠い生身の人間。世俗に生きる人間性を否定する存在でありながらもあまりに生々しい人間性そのもの。それが『凍』で描かれる画家シュトラウホである。

本作は、"シュトラウホ"以外に固有の人名が登場しない。語り手でさえ"ぼく"または"研修医"としか表記されない。度々登場する面々も、"女将" "皮剥人" "技師" など、その職業の名称で語られる。ああ、"女将"も"皮剥人"も誰でもよかったのだ、その時、その場所にその役割を負うに能えば誰でもよかったのだ。自分である必要があったのだろうか?自分は"会社員"に過ぎない存在なのではないか。固有の名を持つ存在である必要があるのだろうか。このまま"会社員"として死んでいく、否、すでに"会社員"として凍てているのではないか。という思いを拭えなくなる。研修医が悩む場面とも重なる。思えば、調査される対象である"画家"のシュトラウホか、調査を命じ報告資料を読む立場である"下級医"のシュトラウホ、いずれかの目線で読むべき作品だったのかもしれない。

何者かであろうとして、何者でもいられなかった画家シュトラウホ。何者かであることができたのだろうか?彼の結末、研修医が下級医から与えられた任務の結末はここには書かない。

読み終えてから2週間以上経っているがそれでもこの一冊が心に氷柱刺さったかのように印象に残り続けているというのは稀有な体験である。

あなたは、常温の、固有名詞で生きることのできる人間だろうか?気になった人は挑戦してみてください。寒い日にぴったりだとは思いますが、オススメはしません。

 

今週のお題「急に寒いやん」