バラモスゾンビは三度死ぬ

大魔王ゾーマの魔力で再び蘇った

何故おれは悩んでいるのか?

こんばんは。バラモスゾンビです。今日はいつもと違う感じでブログを書こうと思います。というのは、まあまたあとで触れることになるんですけど自分の話の引き出しの少なさというかフリートークのヘボさというか人間的な浅さというかそういったところが気になることがここ最近続いていて、それを脱却するために、自分の脳みその奥に眠ってる言葉を引きずり出してやろうと思って一人でぼそぼそと喋るがごとく思いついた話題でとくにルール無くブログを書きます。イメージはラジオです。ブログでやるラジオっていうイメージで、なるべく話し言葉に近い形でやっていこうと思ってます。よろしくお願いします。まあ今までの記事が確固たるテーマに基づいて書かれているかと言うと甚だ怪しいんですけど、それもまたおれの愛嬌であり最大の欠点であるということで、堪忍してください。暑い中ほんまに恐縮なんですけど今日はべらぼうにジメジメした自分語りになるのでもっと堪忍してください。すいません。

さて、まず話したい事なんですけど、オーバーウォッチ、とにかく辛いですね。かれこれ50戦ぐらいレート1200±100ぐらいのところをウロウロしてます。毎回のように「注意!:公平なマッチが見つかるまでに時間がかかる可能性があります」って出てきて、それやのに平気でゴールドの人と当たったりして、「ああ、おれみたいなへたくそを探す方が難しいねんな、ああ、オーバーウォッチやっててごめんなさい」という謝罪の気持ちしか出てこん。実際試合が始まっても相手とかすごい強くて、とにかくもう負けた時は「オーバーウォッチやっててごめんなさい」という気持ちになるし勝った時は「おれみたいなへたくそを引きずって勝ってくれてありがとう、上手い人ほんまにありがとう」という気持ちになる。オーバーウォッチ、本当に辛い。辞めたい。

この「辛い」「辞めたい」というフェーズ、今までの人生のなかに何度もあって、思い返してみればいろんな事を中途半端に齧っては辞め、齧っては辞めを繰り返してきた。辞めるときは当然勝てないとかしんどいとか飽きたとかいろんな理由があって、これといった後悔もなくあっさりと辞めてしまえる。おれより後にそれを始めたやつがおれを抜かしていっても、おれ自身はもうそれを辞めてしまってるから、「おれは次のこれをやってるから」って言って悔しくないことにしてきた。結局それの繰り返しで何が残ったかと言うと、実は何も残ってなくて、おれの周りの人たちは何かが出来て何かをやり遂げられてるということになった。いろんな事を齧ってるからそれなりにその道の人と話を合わせられたりするんやけど、深く議論するまでに知識がない。自分の中での方法論であったり自身の成果物というレベルまで落とし込めてないから、その道に詳しい人とは怖くて話せへん。詳しくない人と話そうとすると、なまじ用語とかを知ってしまってるもんやから今度は向こう側から「ごめん、詳しくないからわからんわ・・・」と壁を作られてしまう。ゲームがまさにそうで、おれはゲームがめちゃめちゃ好きやけども1年やってるオーバーウォッチのこの体たらくを見てもらえればわかる通り、「下手の横好き」以外に評価のしようのない状態で、オーバーウォッチひとつ取っても強いプレイヤーの輪に入るほどの技術も知識も自分の考え方と呼べるものもなく、しかし一方で会社の人とかには「休みの日はずっとゲームしてます」みたいな事を言う、まあそんな感じやから、ゲームに詳しくない人からはおれは「ゲームに詳しいやつ」みたいに見られてて、ほかに趣味らしい趣味はないから話題がなくなってしまってコミュニケーションがなくなってしまう。オタクっぽいけどオタクと話せるほどオタクじゃないし、一般の人とすぐ打ち解けるほどのコミュニケーション能力はないし時計とか車とかスポーツとかの知識がない。人と深い付き合いを築けない。本当に情けない。「特技は?」と聞かれて答えられるものがない。オーバーウォッチが今とても辛いというのは勝てないというそれだけではなくて今まで何度も繰り返してきた逃避がフラッシュバックして「またおれは逃げるんか」と葛藤してしまってるからなんやと思う。

 

急に話題は変わる。おれの敬愛する筒井康隆大先生の「敵」という小説に大きな衝撃を受けた一説がある。突然ですが引用します。

あたりは闇になった。この疲労と虚しさは何だろう。いっときの興奮と自己満足。それが人生なのか。祝福の中に生まれて涙の中に死ぬ十人並みの人生。それが人生なのか。借りてきた他人の言葉で語り続け他人の言葉を残して死ぬ。それが人生なのだろうか。

これは読んでわかる通り、主人公が自分の死期を悟ったときのモノローグなんですけど、あまりに恐ろしくないですか。おれはこれを読んだときあまりに恐ろしくてすぐ手近にあったキャンパスノートに書き写した。これはそばに置いておかなあかん言葉やと思った。あ、関西弁、読みづらかったらごめんなさいね。関西人なもんで。すいません。 おれの人生って今のところ本当にこの通りで、今まで自分の中で良かったと思えてることって本当に「いっときの興奮と自己満足」でしかないし、ブログでもこれまで「自分の人生を生きろ」みたいなことを書いたりしてはきたけども結局のところ「十人並みの人生」でしかないし、「借りてきた他人の言葉で語り続け」てるばっかりで自分でなにか生み出したものなんてないし、ああ、このまま「他人の言葉を残して死ぬ」、すなわちその他大勢の中のひとりとして、埋没して死んでいくだけなんやなあという現実を突きつけられた。自分の人生って何?

と、考えた時に、思い当たるのは最近始めたSNS断ち。「始めた」というか「辞めた」というほうがふさわしいな。「しない」ことを「する」。「無」が「有」る。そんな話は置いといて。前にも書いたとおり昨今のSNS文化の過熱は本当に眼に余るものがあって、今日なんかはNHKですら「SNSが消費を喚起しています。なんとナイトプールにはSNSに投稿するために来て水着は持たず、写真だけを撮って帰る人たちがいます。」というようなニュースをやってた。アホと違うか。こんな奴らと一緒にされては困る。こんな奴らと同じレベルのこと、いいね!だの★だので一喜一憂するなぞ正気の沙汰では無い、と思っておれはSNSを辞めた。あいつらはSNSという虫に脳をやられてしまった不具者なのだ。まとめサイトだのキュレーションサイトだのも同様に見るのを辞めた。Web広告が不愉快でならなかった。結局Web広告だのYoutubeだので飯を食ってる奴らもSNS不具者たちと同様で、「アクセス数を稼ぐ」という観念に脳をやられてしまっているのだ。さてそろそろ口調がおかしなことになってきた。もっともらしいことを言いながら、ついにおれはSNSだの何だののインターネットの魑魅魍魎コンテンツから身を避けたわけだけれども、じゃあそのうえで俺がやりたいことは何か?自分の人生というのは何なのか?考えてみよう。

おれもSNSをやってた時代はあって、それはもう人からいいね!とかコメントとかをもらいたいなあと言う気持ちが強い時期もあった。今はないけど。でも結局、今こうしてSNSに取り憑かれた人たちを見て不快感を覚えるのって、単純に取り憑かれたようにスマホをいじるその人たちが気持ち悪いというだけではなくて、それでその人たちが一定数の評価を得てるってことに対しての僻みも含まれてるんやと思う。それによってワイワイキャッキャしてるコミュニティがあって、それに入れへん自分っていうのを認めたくなくて「お前らは馬鹿、おれは馬鹿じゃないからお前らの仲間に入らへん」って言ってるだけなんやと思う。何故なら、ほんまにその輪に入ろうとしても入れへんから。じゃあ何故その輪に入れへんのかというと、それは上に書いたことにも繋がって来て、いままで色んな事を中〜〜〜〜途半端に投げ出すってことを繰り返してきたから。中途半端に投げ出して来たことの中には人付き合いも含まれてるしコミュニケーション能力の低さにも繋がってる。「SNSで人気の〜」が嫌いなのは、自分がそうなられへんかったから。評価してもらえなかったから。いままでのおれのままSNSを続けてもすぐ頭打ちになっておもんなくなるから、そうなることを見越して、これまた逃げてしまうことになった。

おれが不快感を感じるものの原因を探っていくとほとんどがこの「僻み」に集約されることがわかった。「僻み」と「中途半端」これが今のおれをつくる原因となった。何も出来ないくせに人のことを僻んで、「誰もおれをわかってくれない」と悲劇ぶる25歳独身男性、キッツ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!

冒頭に書いた「フリートークのヘボさに悩んでる」という話、これもここまでの話と関係がある。これは女性との接し方という問題で、まあかなりデリケートな話になってくるんやけども恐れず書くことにする。まあ何かと言うとめちゃめちゃ簡単な話で、女の子と何喋っていいかわからんというそれだけ。無理矢理話す必要はないねんけど、人と比べるとやっぱりそこの能力が劣ってるなあとひしひしと感じる。何故そこに劣等感を感じるかと言うと、悟ったふりをしながらおれにも性欲があるから。勃起してるから。SNSを一生懸命やってたときも結局女の子によく思われたいというただそれだけだったような気がしてきた。おれはヤリチンとかヤリマンはクソのカスやと思ってて「性生活が乱れてるやつはクソ、ゴミ、性病」みたいなことを言ったりしてるけども結局のところこれも僻みでしかない。何故かというとおれにも性欲があるから。ギンギンに勃起してるから。性欲はあるけど合コンなんか怖くて行かれへんしナンパも出来ひん。当然ながらヤリチンとかヤリマンはおれみたいなどうしようもない人間のことはなんの意にも介さずセックスしまくってるわけやけども、それに対して鼻息荒く非難の言葉を並べて勃起しているおれ、あまりに滑稽では?

「僻み」は何に対してかというと「女性からの評価」であるということがわかってきた。なんともこれは驚くべきことである。結局はちんちんが気持ちよくなりたいだけだったのだ!

こうなってくると、今度は自分のちんちんといかに向き合うかという話になってくる。剥きあう必要はない。もう剥けています。幸いにしておれにはそれなりに長く付き合っている恋人が居るのでそこらへんの女にちんちんを気持ちよくしてもらう必要は無い。これによって「いかにしてそこらへんの女にちんちんを気持ちよくしてもらうか」は考える必要がないということがわかった。あとに残る問題は「それでも僻んでしまうのをどうするか」である。自分でも何を言っているんだというぐらいアホな話である。こうして言葉にするまではある程度もやもやしていたが、書いていくうちにもやもやもクソもなくなってきて恥ずかしくなってきた。どれだけアホやねんおれは。「それでも僻んでしまうのをどうするか」⇨「放っておけボケ」が今のおれの中の結論である。今そうなった。

女を抱きたいと言う気持ちはあるが女を抱くための努力はしたくないし、抱くことによるメリットは射精感以外にない。とすると女を抱きたいと言う気持ちはそういうものだとして放っておいて女を抱きたいという気持ちに従って時間や金を使って女を抱くための努力をしている人のことも放っておくというのが多分正解。性欲は放っておくということになったのでおれの中の関係各所、おもに前立腺や海綿体のあたり、宜しくお願い申し上げます。

書き始めて一時間ぐらい経って4700字を超えて最初は何が言いたかったのか良くわからなくなってきたけれども、まだまだやっていく。お盆だから。自分のもやもやにケリをつけたい。

なんとなく、性欲についての問題は解消出来てきたような気がしてきた。あとは「自分は何をしたいのか」の問題。

何をしたいか・・・・。何を成し遂げたいか・・・・。

じっと考えると、おれが真にやりたいことはゲームと文章だということは間違いなさそうだ。ではゲームはどうしたいか。文章はどうしたいか。ゲームは「勝ちたい」。文章は?「面白い文章を書きたい」。それを実現するためには・・・・・・。努力するしかなさそう。

ゲームの種類は数あれど、「勝つ」ための考え方の根本には共通する「何か」があると思う。これはゲームだけではなくその他の競技にも通ずる「何か」だ。学生時代スポーツをやったりもしたけれども、根本的な「勝つ」ための「何か」はまだ掴めてないように思う。それを掴むために・・・・怒らず腐らず、向上心を持って日々鍛錬を積み重ねるしかない。(※ゲームの話をしています。)

文章の方は客観的な勝ち負けが無く判定が難しいが、これも向上心を持って日々鍛錬を積み重ねるしかないのだろう。もはや何のブログかわけがわからなくなってきたが、更新頻度をなるべく上げ、記事のバリエーションを増やしていきたい。引き出しを増やしたい。

こうして「やりたいこと」から逆算すると、そのほかにくよくよ悩んでいたしょうもない事柄はその存在自体が忘れ去られてしまったような気がする。読んでいる皆さんは多分何がなんやらさっぱりわからず、「コイツ冒頭から何言ってんの?」状態かと思われますが書いているおれ自身は頭の中がスッキリしてきました。

すべての些末ごとはゴミ箱へ放り込んで、やりたいことをやるための方法だけを考える。多分これが正解っぽい。脇には目もくれるな!そろそろ眠くなってきたというのもありかなり雑な締めになったがまあよしとします。適切な手抜きは次へのモチベーション維持になります。

 

この記事のタイトル「何故おれは悩んでいるのか?」は、最初は「悩んではいるものの漠然としておりまるで迷路のようでどうしていいかわからない」という意味合いで付けたものだが、5500字超書いた今では「ハテ?悩みなんてあったか?何を悩んでたの?」という意味に思えてきた。

「十人並みの人生」「借りてきた他人の言葉で語り続け他人の言葉を残して死ぬ」だけでは終わりたくない。おれはおれを生きるぞ。

読者の皆様方に置かれましては大変見苦しいものをお見せし誠に申し訳ございませんでした。ご迷惑をおかけいたしました。真摯にお詫び申し上げます。ご静聴ありがとうございました。